2/23(金)のことですが、こんなビッグニュースが流れました。
『駿府城天守台「日本一」静岡市が発掘調査、江戸城超える規模』
天守台の北側から、オマチの摩天楼を望みます。
県庁がまるで天守閣のようです。
時代が錯綜して面白い構図ですね。
これまでは、江戸城の天守台(45m×41m)が一番大きいとされていました。
2016年度から駿府城の天守閣(天守台)の発掘調査が行われていますが、今回の調査で、それを上回る天守台(西辺約68m、北辺約61m)が確認されました!
一辺が江戸城の約1.5倍、面積では約2.25倍、「日本最大の天守台」です!!
天守台の比較イメージ図です。
左が駿府城、右が江戸城です。これだけの違いがあるんですねー。
天守台が江戸城より大きかったことが証明されたことは、静岡人(すみません私だけかもしれません)にとっては、とても誇らしく、今年の10大ニュースといっても過言ではありません。
興奮のあまり、翌日の2/24(土)10:00~に開催された現場見学会に行ってしまいました。
天気が穏やかだったこともあり、市民数百人が集まり大盛況でした。
静岡市歴史文化課の学芸員小泉祐紀さんによりますと、江戸城を上回る規模の天守台を築いた徳川家康の意図について、「
豊臣方との対立構造が残る時代に、家康の権威を外部に示す必要があった」と説明しています。
今回発見された、1600年頃の石垣です。(天守台北側)
直線部分は「打ち込み接(はぎ)」という積み方です。
下部の赤茶けたところは火災の跡らしいです。
「打ち込み接(うちこみはぎ)」
1600年関ヶ原の戦い以降に一般的になったもので、表面に出る石の角や面を叩いて削り、平たくすることで、石同士の接合面に隙間を減らし、それでも生じた隙間には、詰石を打ち込みながら積み上げます。
コーナーの「算木積み」が美しいですね。
「算木積み(さんぎづみ)」
石垣の角っこの強度を高めるための積み方です。
1605年前後に用いられているとされるので、江戸時代に築かれた石垣に見られます。
こんなふうに長方体の石が交互に重ね合わさっています。
天守台内に石組みの井戸が発見されました。
井戸があるのは、いざというときの籠城に備えるためで、建築当時「政情が安定していなかった証拠」です。
天守台に井戸があるお城は、全国的にも数が限られ、駿府城が戦略上重要だったことがわかります。
これらの発見から、次のような説は成り立ちますか?
徳川幕府成立は、「徳川家康が征夷大将軍に任命された1603年」とするのが通説ですが、
「征夷大将軍に任命された」のではなく「
実質的な支配をもって幕府の成立である」として鎌倉幕府の成立の年が1192→1185年になった例からすると、豊臣家が滅亡した1615年ではないでしょうか。
つまり、
1600年「関ヶ原の戦いで勝利」
1603年「徳川家康が征夷大将軍に任命」
豊臣家に従う大名もまだ存続し、家康が全国支配したとは言えません。
1605年「徳川家康が
駿府城に入る」
→大御所政治
征夷大将軍を子の秀忠に譲り、秀忠が江戸で東日本統治し、家康が駿府から指揮、西日本を牽制。
1615年「大坂夏の陣(豊臣家滅亡)、禁中並公家諸法度、武家諸法度制定」
→ようやく全国支配「
幕府成立」
征夷大将軍の秀忠は名ばかりで、
実質的支配者は大御所の家康で、
その居城は駿府ですので「駿府幕府」では?ただし1年限りですが。
「一路行こう(1615)、夏の大坂、駿府から」
なんか、JRのCMみたいですが・・・
1616年「家康亡くなる」
→江戸(秀忠)が実質的支配「江戸幕府」
今のアメリカで言うと、ニューヨークが江戸で、ワシントンD.C.が駿府、みたいな。
首都は、ニューヨークではありません。
No. New York!
歴史家の皆さん、いかがでしたか?
今回、残念ながら礎石(建物の基礎)が見つかりませんでした。
もし、礎石が見つかっていたら、天守閣の姿がCG再現できたかもしれません。
将来的には天守閣のリアルな復元という話も出ていますが、まずは足元(天守台)からですね。
ところで、済生会も駿府城と同じ
「日本最大」の社会福祉法人です。
「日本最大」には、それなりの理由、大義があります。
今度、その辺を掘り下げたいです。